instagram

03

Diary

『言葉』について

こんにちは。はればれの人です。

約半年ほど前に書いた記事をその当時は感情から変な方向にいったかなーと思ったので公開せず置いていたら、時流が僕の感情を追い抜いてしまったのでとりあえず挙げてみることにしました。

とっても長い独り言。お時間ある人だけお酒を片手にご覧ください。


ここから本編——–

みなさまにとって言葉とはどういう扱いでしょうか?
ぼくが思うにクリエイティブにおいて「言葉」はとーーーっても重要なものです。

特にコンセプトやキャッチコピーといった短くもわかりやすく、伝わりやすいものを考えるのに何日も何日も夜なべしてようやくたどり着きます。

さて、今回の議題はこの「短く伝わりやすい言葉」について考えて見たいと思います。
例として・・

こちらをテーマにしていきましょう。

手当の代わりに控除をなくすなどして上げたり下げたりで訳分からなくしている実質のステルス増税。
この一連の政策自体に文句は山程ありますが、今回それを言い出すと財務省と現内閣への文句が止まらなくなるので視点を少し変えまして、
「異次元の少子化対策」というワードにだけ注目したいと思います。

このワードはぼくたちの業界で言うところのコンセプトであり企業でいうところのミッションでもあります。

これをコンセプトだと考えると、アウター向けにはこれを見て興味を持ってくれた人に言葉通りの「体感」を与える必要があり、政治家が方針を語る以上、本来『口約』に近い社会的責任を負います。
インナー的にはメンバーが一丸となって具現化するための大切な大指針であり、目標でありゴールでもあります。


ほぼ同様の意味合いをミッションとして掲げられている”星のや”さんを例にとると
「圧倒的非日常」という表現があります。
言い切りに決意を感じられてとても気持ちいいですね
https://www.hoshinoresorts.com/brand/hoshinoya/

「異次元の少子化対策」に対して置いて引けを取らないほどにものすごくハードルを上げています。
この「ハードルを上げる」ということを具体的に考えると「対象の期待値を上げる」ということです。

最初に「おもろい話があんねん」と言ってハードルを上げてしまうと実際にはおもしろかったとしても、おもしろかった試しがありませんし、逆にそんなん人から「こないだの面白い話してーや」とか振られたら地獄です。
(英語圏ではこれが逆に「おもろい話がある」から入ります。ハードル上げるとこから入るところが文化の違いですね。)

なぜハードルを上げるとウケないのか?その理由はハードル(期待値)を超える話ができないからです。

ここで超えるものは何かというとぼくは『満足度』だと思っています。つまり満たすこと。ハードルで表現しているので「超える」とか高さのように聞こえてややこしいですが、ぼくは期待値を『器』、満足度を『水のような液体』をイメージしています。

期待値でできた器を、溢れるほどに満たせられれば、ハードルを超えるということになります。
逆に器の中にちょびっとしか入らなければ期待のし損。という風に受け止められます。

実際「乾いた笑い」「心が乾く・潤う」など感情を水分性質の表現を用いること多いですよね。人間7割が水ですから。水割りなんですから。

時を戻して星のやさんで改めて置き換えると、コンセプトに共感するお客さんが宿泊する際、星のやさんが提供しないといけないのは「圧倒的に非日常な体験」を「体感」してもらうことです。

時系列でいうとコピーに付随する旅前の興味フェーズに得るもの(ワクワク、憧れ)が『期待値』。
これに対して宿泊という体験を経て、チェックアウト、帰省中、または後日噛みしめる幸福感(行ってよかった、また行きたい)が『満足度』。
この満足度が他の経験で得た満足度とは比べ物にならないと感じることで、先の「圧倒的非日常」が旅行者の内部で具現化します。

期待値 ≦ 満足度

そのためには設備、環境、従業員一人ひとりの接客レベルなど旅行客の体験に付随するあらゆるものを圧倒的なものに仕上げなければ、「期待してたものとちがう」。となるでしょう。

期待値という器は必ず満たす必要があるのです。


人間が一番冷めるのは「おもてたのと違う」ときです。
信じたもの、期待したものが、おもてたのと違うから人は怒るし悲しむのです。
本来入ると思っていた器にちょびっとしか入らない、何も注がれなかった場合、空いている空間を何で満たすか。多くの人が「怒り」や「悲しみ」といったいわゆる負の感情で満たします。


期待値 > 満足度
足りない満足度 + 怒り、悲しみ = 満足度

逆に、期待に応えたときの人々の熱狂は凄まじいです。
昨年のサッカーワールドカップで初戦を突破してからの日本の状況や、WBCでの大谷選手を思い出してみるとわかりやすいですよね。
期待に応えてくれる人はどんどん好きになってどんどん期待も膨らむ=器が大きくなるし、期待してた人が不倫とかするともうすんごい攻撃的になりますよね。(そもそも不倫は人様のお家事情であって他人がなにか思う、すなわち期待することではないのに何でしょうね?昨今の風潮は。)

一度満たした器は更に大きくなり、「もっと満たしてくれ」という欲が発動してしまうのが人の業といいますか、強欲の源であったりもするので、これをぐるぐる考えていると
結局、器があったらあっただけ満たしてほしいんですよね。諸行無常ですね。
ほどほどを見つけたいところです。

つまり期待値が高ければ高いほど情熱も集中し、期待を裏切ったときのしっぺ返しもまた凄まじく、かといって多少期待値を上げないと人が興味をもってくれないというのがまた難しいところです。

回りくどかったですが、何が大切かというと『期待値』に対して少なからず『満足度』が一定量満ちている、もしくは上回っていなければ、人は満たされない = 納得しない ということです。

ここで更に話を戻します。

さて、今回の「異次元の少子化対策」ですが、コピーでいうと「異次元の」が期待を高める部分ですね。先程の星のやでいう「圧倒的非日常」がそのまま当てはまります。

今政策について愚痴りたいわけではなく、ネットやSNSの発展で発言し易い世の中になって良い面がある一方、悪い面が加速していると思うことについて声を上げたいだけです。
※個人的には現首相は最近の中でも一番言葉を軽く使う人だなと思っています。

今回の「異次元の少子化対策」という期待値に対しての満足度は少なくとも5年後、わたしたちが「あのときの政策がなければ今の日本はなかったな!」「誰も思いつかなかったことをよくやってくれた!」など、現時点では理解できないような政治のプロが掲げる「異次元」さが必要です。強力なリーダーシップで本気で取り組み、何年か走ることで始めて結果がついてきます。やはり国民の1%が毎年生産されないと100年時代に均等化されないですもんね。とりあえず目下100万ベイベーから10年連続増加ぐらいが目標じゃないでしょうか。

おそらく今後そういう我々が理解し難い政策が発表されるのでしょう。
今あるやつをちょっとボリューム上げて取り組んでるアピールしてるだけなはずがありません。そうでなければ「異次元」ではありません。異次元と吐いた以上それは当然です。楽しみにしています。


顔と名前が一致し、個人のパフォーマンスすべての責任を取らなければならない芸能人やアーティスト、一部の著名経営者の方々を除いて、組織の中から発言するor 匿名で発信する人=責任の所在が不明瞭な人に対してとても強く思うのは

「その期待値の上げ方で受け手を満足させられるのか?」
「そのコトバに責任を持ってやりきれるのか?」
ということです。


国民へ向けられる「言葉(口約)」と、得られる「体験」が伴わないことが多すぎて、国民の心が離れ、「誰がやっても一緒」「選挙なんて行っても行かんでも一緒」となるのではないでしょうか?

日本の国会を一個人に置き換えてみると「お前なんか何やっても一緒」「おってもおらんでも一緒やで」と言われているようなもんです。政府にという器に対して虚無の感情で満たしている状態です。
悔しいです。

繰り返します。

今回はわかりやすく言葉を軽んじた例が絶賛拡散中なので、岸田首相を例にしていますが、SNSやネット記事を見ていてあまりにも言葉を無責任に使用している人が多すぎる気がしています。あまりにも軽快に言葉が飛び交っているので、今感じるていることを整理したいと思いました。

ぼくらはブランディングする際、特に気をつけているのが発信する内容が受け手にとって「嘘」にならないことです。
できもしない、ありもしないことを誇張して伝えたりすることは一番ダメなことだ、という思いで携わっています。
ブランド・企業が持っている『資産』をより良く育てることがぼくらにとってブランディングであり、関わる人達の満足度につながると信じています。

メディアでは連日誹謗中傷を大きく取り上げますがそんなもんはそもそも言葉の責任能力が無い人たちの言葉ですから、そこを追いかけてもイタチごっこだと思うんですよね。そもそもの責任についてもっと議論してもらいたいですね。発言する方にもそれに意見する方にも、言葉に責任を持つことを最低ラインにするといろんな問題が解決する気がします。

よく結婚してから大した理由もなく急速に冷え込む夫婦を見受けますが、これも期待値と満足度のラリーによってもたらされるものが起因するものと思っています。(決定的な人間性に問題がない場合です)「おもてたんと違う」の連鎖により底値からもう浮上できなくなっている状態ですよね。旦那や嫁に期待するから裏切られたと思って傷つき怒る。最初から一人の女と男。ただそれだけと思っていれば少しのことが嬉しいし、飽きるなんてことなんて無いと思います。勝手にお互いに対する期待の器を大きくし続けた結果、怒りと悲しみで満たしてしまい、負の器を量産し、眺めるだけの連鎖。まずは器を破壊することからしてみてはいかがでしょうか。

脱線しました。

政府の発信以降「異次元の〇〇」が異常に増えていますが
そのほとんどが「どこがやねん!」です。
「どこがやねん!」「誰がやねん!」「誰がゆうてんねん!」と、
毎日毎日この類のツッコミに疲れて頭痛が痛いです。

色々言っていますが言葉は重く、ときにとんでもないことだって起きるということを言いたいだけです。
今考えたら「尊皇攘夷」なんてとんでも無いバズワードです。
1ワードで国が動き、今の日本を作るきっかけになっています。


この国は西洋諸国が嘘つきまくって戦争しまくっている間に
圧倒的不利な状況から国民一丸となって先進国を目指し、G7に名を連ねる国家へと発展した、言葉に責任を持つ国です。とてもかっちょ良く誇らしいです。

スパイダーマンでは『大いなる力には、大いなる責任が伴う』と言っていました。
いい言葉です。メディア、政治。発言する人において言葉は力です。

ウチノオカーンからは「やらへんねやったら最初から口切るな」「口切ったら最後までやれ」と毎日のように言われていました。(とても口悪いですが言葉を口にすることを言ってます。)

しつこいですが言葉を発言する人はそれに影響される人、それによって変わる未来に対して覚悟を持つべきだと思います。

多分ぼくが年齢を重ねた結果、
気になる言葉が多くなっているだけで昔からそういう輩は一定数いたと思います。人間とういう性質上割合も変わってないと思います。
ただ、匿名社会。なかったことにする組織体質。とにかく稼げればいいクリック主義など、薄っぺらな仕組みが言葉に無責任な大人を量産している気がしてなりません。
そういう輩は意見がありそうに見せて中身のない同じようなことしかいいません。

昔、大人にこう言われました。
「最近の若い子はみなおんなじ顔にみえんの〜。ハンコみたいやなあ。」
「どこがやねん!よう見ろやオッサン!ええ加減なことゆうなや!」
と反抗していた全方位反抗期だったぼく。

そのころええ加減なこと言っているとそこら中の大人にドツカれてました。
昭和から平成に移るというのにぼくが生まれた街は『じゃりんこチエ』のような世界でした。
そこでは嘘をつくと「バチ」という名の罰を食らう日常でした。暴力がいいとは思いませんが、いい加減なこと言うと「バチ」が当たると今だに体が覚えているためええ加減なことは言えません。
(ただし笑いだけはええ加減なほど良しとされます)

今国会にあの頃のおっさんたちを放り込んだらバチの雷雨が降り注ぐことになるのでしょうか。面白そうなので召喚したいぐらいです。

もはや日本人も含めてアジアの中華系の人種がハンコみたいに見えてきている今日このごろ。
ええ加減なことばかり言う量産型大人が、AIに選んでもらった言葉を何も考えず堂々と発言している日が近日訪れます。というか訪れています。
(元々人が考えてるかAIが考えるかの違いで自分で考えない以上対した変化は無いですね。)

過去を美化したい訳ではありません。
人間は過去を美化したがる生き物だとしても
多くを語らず「背中で語る」美学はどこにいったのでしょうか?
やはりぼくは古いと言われてもかっこいい背中を見せてくれる人に憧れます。

世界は着実に便利になって裕福になって、大きな視点で言うと良くなっていると思います。
ただ、人のつながりが希薄になり、言葉の重みが軽くなり、責任をきちんと取れる大人が少なくなっている気がしてやまないこの頃、多くの人が大きな言葉にはその分責任が伴うことを、知っているのに、無責任な言葉が垂れ流しになっている現実に、ただイライラしながら無責任に言葉を垂れ流しています。

「なんやねんそれ!誰がゆうてんねん!」
ツッコミすぎて胸焼けが気持ち悪いです。

「できることだけ言ってるやつに希望は集まらん。
笑われるぐらい大きいこと言って、できた方がかっこええやん。
失敗したときは素直に
『ごめん、できんかった!』って言えたらそれでええやん。
何かを始めることより何かをやりきる方が何倍も難しく、かっこええんやで。
できんかったからって、なかったことにするなよ。
みんな知ってる。覚えてる。言わんけど。しらんけど。
迷わず行けよ。行けばわかるさ。」

イチデザイナーの独り言垂れ流し


————

およそ半年前、2023年6月の時点で岸田政権が異次元の少子化対策の内容を公開した次の日に筆を取りました。その当時サミットなどの影響で支持率50%近い状態でした。
今では増税〇〇メガネとまで言われて半分の支持率になっています。

やはり薄っぺらいものは早かれ遅かれ見抜かれ、剥がされるということがまた一つ証明されたような気がします。

ぼくらは商売柄そういった方の言葉に敏感です。
本気で言っているのかどうかは伝わるのです。

ぼくがこの記事で伝えたかったのは岸田政権批判をしたかったわけではなく、言葉に責任を取れない人から出る薄っぺらな言葉は、必ずバレるし、自分も人の首も絞めるのだということをみんな理解しましょう。ということでした。そうすれば軽口はたたけ無いし、他人のことをもっと真剣に考えられると思うんですよね。おーん。

それではまた気が向いたら何か書きたいと思います。

よいお年を。