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03

Diary

『品』について考えてみる

どうも。はればれの人です。
あったかくなってきましたね。

めったに向かない気が向いたときにブログを書いています。

ぼくは寒くなると極端に活動範囲が狭くなるので、
この冬は海を見ながら一つのことをぼーっと考えるようになりました。

ほぼ古代ギリシャ人のように一つのことを自分なりにテツガクしてます。
端から見たらやばいやつです。はい。

今回はこのテーマについて少し自分なりに考えがまとまったので
今のうちにここに整理しておこうと思います。

※完全主観によるテツガクでなにかの拍子に考えが変わることもあります。無責任な意見をまとめているだけですのでふーんぐらいでご覧ください。



さて、よく
「あの人『品』があるよね〜」とか、
「なんじゃあいつ『品』の無い!」とか
「お下品ですね」とか「お上品でさぁねー」とか。
一度は耳に、口にされたことがあるんじゃないでしょうか?


では、その『品』はどこからが「アル」で、どこからが「ナイ」のでしょうか。
てことで、『品アルナイ分岐点』を探そうと思います。ヒヒーン!


画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Untitled-Draft-3-1000x625.jpg

※ペンタブの練習に落書きを載せてます。お見苦しくてすみません。

とりあえず、漠然とですが子どものときからの価値観がそのまま大人になっても受け継がれている気がします。

思い起こせば子どものときに裕福気味な家の子どもは「品アル」カテゴリに、
僕らみたいな下層金ナイ民は「品ナイ」カテゴリに属していたように思えます。
僕の育った街では貧富の差がえげつなかったためこれが割とはっきりしていました。

わかりやすく言うと、こどもが「おやつ〜」というとお菓子が出てくる家が「品アル」家で、
「おやつ〜」というと「なめてんのか!」と拳が出てくるのが「品ナイ」家です。

それぞれのカテゴリ内では、同じような属性の人間が集まるので同じ価値観で育ちます。
実際ある程度大きくなるまで品について意識することはありませんでした。

これが問題になってくるのはきっと別のコミュニティに属することになったときです。

様々なコミュニティからやってきたこの品「アル・ナイ」カテゴリに属してた人間たちがごっちゃになっていったとき、カルチャーショックを受けたことがあるのではないでしょうか?

ぼくの場合は地元の『だんじり』ですね。恐らく当時参加していたすべての大人が僕も含めて「大品ナイ」カテゴリに属したお振る舞いをされていて、小学生ながらにこれはぼくにはハード過ぎるなぁ、なんとかせんななあ、と思ってたことを思い出しました。

一般的には高校や大学など地元の友人がいない場所に入ったタイミングですかね。
そういうコミュニティに属すると自分の常識を破るような品の持ち主もいたと思います。
今思うとこの頃に「人のふり見て我がふり直す」ができていれば品アルに属せるチャンスなんですね。

恐ろしく「品ナイ男」と、とっても裕福で「品メチャアルお嬢様」がなにかのきっかけで付き合ったりするのもこのタイミングですね。
よく映画などではこれで親に反対されて駆け落ちしてってなりますが、僕の知る限りでは「品」のトーンが合わない人同士が一緒になっても結局別れています。友達同士でも離れがちになります。良い方に転ぶと品トーンのアル方がナイ方に合わせていきます(今のところ逆パターンは見たことナシ)。

つまり大人になっていく過程で、品のアル・ナイが人間同士のコミュニケーションに影響してくるということです。ではどこが境目なんでしょう?そもそも品とはなんなんでしょう?

「あらあらお上品ザマス〜。ご機嫌ようザマス〜」とか
「おフランス料理のフルコースザマス〜」とか
スネ夫のママ的な大上品お金持ち振る舞いが品なわけではござあせん。
(このあたりなら宝塚や西宮の富裕層には実際にザマスの民がいます。富裕層には実在するんザマス。)

品とは見えるものなのか?見た目か?という観点で考えてみると
—————
✗めちゃくちゃ男前でも歯がボロボロでまっ黄っ黄だとやはり品が無く見えます。
✗めちゃくちゃ美人でグラマラスでもくちゃくちゃ口開けて食事されると、とても下品だと思います。

◯とっても太っていてもきっちりした格好で美しく食事をする方は品があると思います。
✗とっても太っているからしょうがないとお店でズボン開けてお腹出してご飯をかきこんでいるのは見てられない品の無さだと思います。
—————
むむむ。見た目だけではアル・ナイを分岐するには難しい気がしますが関係ありそうな気もします。


続いて経済的裕福度の影響がどうか考えてみます。
—————
✗出されたものに対して嫌いだと言って食べ物を残しまくるこどもは下品だと思います。
◯お下がりが続いたボロを着て頭ボサボサでも挨拶をハキハキして、なにかあったときに「ありがとう」「ごめんなさい」がはっきり言えるこどもはとても品があると思います。

◯お金が無くたって知恵と工夫できちんと健康に配慮した生活をしている人は品があると思います。
✗お金があるからと怠惰な生活をしている人はそれが顔や身体に出てきて品が無く見えます。

—————
品のアル・ナシで考えていくと、経済的な裕福度による分岐も難しいような気がしますが関係ナイとも言い切れない気もします。

では最上品はなんでしょう?
考えうるに「皇室」の方々でしょうね。
上品が最上格を持って生きているわけですから究極です。悟空とベジータが合体です。

少し別の角度から考えて『品』とは何から生まれるもんなんでしょうか?

とりあえず生まれたときはみんな一緒です。
5歳ぐらいまではほぼ一緒です。
生まれ持って品のある赤ちゃんなんか皇室にもいません。
どこからか分岐されていき、そのまま大人になっていきます。

成長の過程で身につけるもんだと思います。
では品の花はどこから咲くのでしょうか?


ぼくは品とは『厳しさ』から生まれるものだと思います。

子どものときに先を見据えて厳しく躾られた子どもは自ずと『品』を纏います。
大人になってこのままじゃだめだと自らを律し、己に厳しく過ごす人は自ずと『品』を纏います。
この子の個性だからと何もいわずに誤った自由を与えた子どもは『品』を欠いて育ってしまいます。
「子どものころからこれやから無理や」と成長に背を向ける大人は『品』を放棄しています。

皇室の方々は恐ろしく厳しくお育ちになられあそばれているのであれほどの品を全員がお纏いあそばせるのだと思い恐悦至極です。

では品とはなんなんでしょうか?

現段階の僕の結論ではアル・ナイの判断は恐らく自分の中の、『大衆感』が決めるもんだと思います。
一般的には、とか、普通に考えたら、みたいな主観+客観風視点みたいな感覚でしょうか。
そういった視点でアルかナイか判断しているように思います。
だから時と場合の主観+客観風視点に合わせて変化すると思います。

『品』という漢字からも見定める雰囲気があります。「値打ち」的な匂いもします。
そして、「品」は大きく3つの口に分けられると思います。

品がアル:所作振る舞いに大衆が好感を持てる(上品)
どっちでもねえ人:良くも悪くも気になるところがない(これが大多数)(中品)
品がナイ:所作振る舞いに大衆が不快である(下品)

これはイメージですが分岐点は2つあってアル分岐とナイ分岐です。大多数のどっちでもね〜人がどっしり真ん中にいて、そんな人達が「品アルな〜」と思う人がアル人。真ん中の人たちが「品ナイな〜」と思うやつがナイ人だと思います。
びっくりです。アル人もナイ人もどっちでもない人間がジャッジしています。つまり一番権力を持っているのは真ん中の人間です。むしろ関係ない人が司っています。恐ろしいですね。

日本は島国で、長い長い泰平の時代があって、ほとんどの人が同じぐらいの経済力で、なんとなーく刺激なく過ごしていて、特に身の危険を感じていない人たちが美を求め過ごすうちに所作が確立していき、浸透し、品を求めるコミュニケーションがそのコミュニティを平和維持するための社会活動=デザインすることだったのかなと勝手に思っています。

少し話はそれますがユダヤ教にはとても細かいルールがたくさんあるそうです。
聞いてるだけでとても面倒なのにそれが少し前まで世界中のユダヤ人にミャクミャクと受け継がれていたことが不思議ですが、細かなルールをたくさんの人と共有することで、遠く離れていても仲間意識が大きく深くなる効果があるそうです。
あれは品が良いとか悪いとか、ルールが細かったことから日本人としての自覚が深まるといった効果があったのかもしれませんね。

これだけは言えるのは、今までいろんな人種の方々とともにいろんな食事をしましたが日本人の年配の女性が世界で一番美しく食事されると思います。はい。
(以外と食べ方汚いのはフラ◯◯..辞めときます。)


しかし「品」が不要な場面もあります。
争いや、生命に危険が迫る時です。
力が拮抗した喧嘩に品を持ち込んでも邪魔です。
ましてや事故や危険に直面しているときに品を優先すると命に関わります。
戦争はその最たるもんでやる側もやられる側も尊厳や品位など平和維持に欠かせない素養を理不尽に奪い合います。だから何があっても避けなければなりません。
デザインが発展しないのもやはり戦時中だと思いますが話がそれて来たので戻します。

ぼくは育ちも口もとっても悪いのですが最低限の品は持ってるつもりです。

最近の学校の先生が不憫なのでそんなぼくが代弁します
子どもの品の無さは親のせいです。
機会を与えられなかった子どもがいることは承知ですが
それも含めて親のせいだと断じるべきです。

そう言われ育ったぼくはこどもの頃、
親を悪くいわれたくなかったので
人前の振る舞いは気をつけて生きてきました。
だからか素行はとてもわるかったのに、いろんなお母さんから人気でよく呼ばれてました。
大人になって親になってよくわかった事実です。

だから品も礼もないやつには愛を持って思い切り手をあげてください。
ぼくたちはそれで結構改心したと思います。

すべての親は人を不快にさせる子どもに育てないために最善を尽くして欲しいです。

そして大人の品の無さは自分のせいです。
どうしようもないです。
だから自分次第でどうにでもできると思います。
今も勉強中よSOUL。一緒にがんばりましょう。

品はきっと磨き続けるべきであって、前より今の自分の方が品よくいられるようにすべきものだと思います。そうして自分の品を自分で磨きつづけないと年齢と時流がずれていくんだと思います。
だからそうして品を磨き続けるおじいちゃん、おばあちゃんは皇室の次に最上品人間となるはずなので、品のある年配の方には敬意を払いましょう。



まだまだ若いからええわい!と言っているといつまでも品なく、年を取っても敬われない疎まれジジババになってしまいます。

ただし、品にこだわりすぎると「プライド高そう」とか「近づきにくい」とかいう状態になりますし、品を意識しすぎると誰かれ構わず下品に見えて逆に孤立しかねないので、やはりバランスが大切だと思います。

品がアルからといってナイことを攻めたり、
品がナイからアルように求められて逆ギレしたりすることが一番品が無いなとつくづく思います。


品があること=幸せでは無いと思いますし、品があればあるほど良いとも思いません。
それはそれでしんどいだろうし、上品はおもしろくないです。今んとこ。
品が無いのは面白いことも多いです。とっても。
たまにそういう下品に身を任せて品を捨てる時間があった方がメリハリがあっていいと思います。

てことで結論。
ぼくはその時ちょうどいい品のチューニングを合わせられる稀有な人になりたい。
おもろいもんはおもろいし、美しいもんは美しいと素直に感じてその場の人と共感できればそれでいいと思います。
でも危険を感じたらまっさきに捨てます。
人の目を気にすると手遅れになることは実際にあります。
大事だけど囚われてもいけない。そう思うのが「品」だと思います。
なんだか結局普通のことを大層に言っている気がしますね。
テツガクなんてそんなもん。


これからの個人的な品目標としては少し良いお寿司屋さんでも似合う人になりたいなと思います。
お金じゃなく品で似合う、お店側からも好感が持てるような振る舞いができる。
でもぼくのことなんて誰の記憶にも残らない。
そんな大人にわたしはなりたい。


※独り言の整理にお付き合いくださりありがとうございました。またなにか整理がついたら書き込みます。